終戦の日に思う 15 agosto 2005
毎年この頃になるとテレビ・新聞を始め、全メディアをあげて反戦・平和番組のオンパレードとなる。しかし、その主張するところは常に「戦争は悲惨だ。だから・・・」であり、「戦争は悲惨だ。だけど・・・」と考える内容のものはほぼ全くと言ってよいほどない。これは平和教育として、著しく片手落ちではないだろうか。
反戦・平和、それは是非とも守っていきたい理想ですし、戦争をしたい人なんて、それこそ誰一人としていないものと信じます。また、戦争の残酷な面を取り上げて、それがどれほど嫌なものであるか、と想像出来るようにする事は大切であると思います。
しかし一方で、国家間には、一国における確固とした三権というようなものがなく、言わば世界は無法地帯であるという事も認識しておかなくてはならないとは思いませんか。
この世界が連邦制にでもなり、世界憲法を持ち、どの国からも、またその世界連邦政府からも独立した司法を確立し、すべての国がそれを批准し、それに従うところとでもならない限りは実際のところ世界は緩やかな無法地帯ではありませんか。
国連は結局米国のイラク侵略を止める事は出来なかった。なにせ今の「国連」と戦中の「連合国」は、日本語の訳が違うだけで同じものですしね。
例えば日本人を平気で拉致する北朝鮮のような国を隣に持つ現実があります。しかし彼らは世界がいまだ緩やかな無法地帯であるが故にきちんと裁かれる事もありません。
かの国の持つ核ミサイル「労働」の矛先は、かの国の仮想敵国日本にも向けられています。そしてこれら我が国の隣国、北朝鮮、韓国、中国は全て徴兵制を持っています。また、各国とも、歴史を歪曲してまでの反日教育には凄まじいものがあります。
憲法九条を掲げて不戦の誓いをしてみたところで、戦争というのは相手のあるものですから、一方的にふっかけられる可能性についても検討してみる必要はありませんか。
もし、私たちの意に反して戦争を仕掛けられた時、私たちは自分の家族、友人、恋人、隣人が虐げられるのをただ手をこまねいて見ているだけ、というシチュエーションに耐えられるでしょうか。またその場合に貫く非暴力とは真に道徳的足り得るのでしょうか。
マスコミの報道は大抵そういった事柄からは目を背けているように感じます。しかし、これらについて真剣に考える事は、これもまた平和への道筋を指し示す事ではないでしょうか。
戦争について真剣に考えれば、それを抑止する手段・方法も幾通りか思い付くはずです。
戦争を未然に防ぐ為には自国の平和教育とバランスを取るべく、他国に対する働き掛けも大切ではありませんか。
これらの国々に対して、歴史を歪曲してまでの反日教育はやめてもらったり、徴兵制はこのご時世に如何がなものかと廃止をせまり、また武器を捨ててもらうよう働き掛けする事は、これもまた有効な平和への手段ではありませんか。中国、北朝鮮の核保持なども、もっての他ですよね。
しかし、なぜか世界平和を叫ぶ多くの日本人がこれらの国々にある、戦争の芽を積極的には積もうとしていないように見えます。
例えば南京事件の事、例えば戦中の慰安婦の問題等、私達が積極的に歴史の真実を相手に伝え続ける事が、これもまた平和への道に繋がるのではないでしょうか。もちろん、学術的な検証によって私たちが責任を取るべき事実が確定されるのであれば、それについては責任を取るべきである事は言うまでもありません。
とは言え、おそらくこれらの働き掛けはこれらの国にすべて内政干渉だと一蹴されてしまうでしょう。残念ながら世界は今のところ戦争を外交の延長、その一手段として認めていますしね。
私達は自然から多くの事を学びますが、その自然界は等しく弱肉強食で成り立っている事が、色々な事象の観察からわかります。人間のみがその法則をはずれ得ると考えるのは、私たち人間の驕りではないでしょうか。ただ、人間は弱いものをいたわる事が出来るけれど。
自然界の法則に照らしてみれば、他国に食われない為には、抑止力として何がしかの「力」が必要となりませんか。強い防衛力を持つ事が相手の行為を思い止まらせる事に有効であるとは考えられませんか。
非武装・無抵抗でこちらが弱くなっても、決して戦争の不安はなくならないでしょう。むしろ武装して、相手に付け入る隙を与えない事が平和につながるのではないかとは考えられませんか。
一般的に言って、隙があると犯罪に巻き込まれやすいという事は、国と国の関係の中においても普遍性をもっているように思われませんか。
非武装で国防に隙を作るのは、その理想とは裏腹に、むしろ有り難くない戦争を呼び込んでしまうのではないか、とは考えられませんか。
憲法九条を掲げていたからこそ、戦後ずっと平和であったと人々は言うけれど、それはそうではなく、今は在日米軍の存在が抑止力となっているからであると考えるのが、より自然で合理的ではありませんか。
平和への歩みも、色々な方向から考える事が出来ます。物事の特別性を神聖視せずに、万事の普遍性から答えを導き出す方法もありますね。