誕生日をナタルで迎える 5 mayo 2006
5月5日の誕生日をキリスト生誕の名を持つこの街、ナタルで迎えるというのも何かの縁なのでしょうか。
ナタルは本日も快晴。
カフェ・ダ・マニャン(朝食)の後、もはや日課となった遠泳へと出かける。
この海岸で遠泳は大袈裟か。
出来れば珊瑚礁の島にあるきれいな入り江などで泳いでみたいものである。
誕生日だし、一人でビールを飲んでみた。
缶の上部へ偉そうに金色の箔をかぶせてあるビール。
名前は残念ながら忘れてしまった。
写真はもう1本飲んだそれとは別のクローネンビール
午後はブラジルへ来て2度目のインターネットをする。
宿の近所、クルゼーロバス停付近にあるインターネットカフェではなんと1時間1ヘアル(56円)!
ただし和文はインストールされておらず、全く読めないし書く事も出来ない。
ちなみにクルゼーロバス停のある公園には、その名の通りクルゼーロ(十字)のモニュメントがあってわかりやすい。
画像として貼り付けてある日本語情報と記憶を頼りに、クリックすべき場所を探し当てながらネットサーフィンする。
何通かメールを頂いていたけれど和文でのものは全く解読不能。
仕方なく読めませんでしたがお返事は帰国後に、といった内容の返信をさせて頂く。
今日は見るべき催しについても全く見当がつかなかったので、一日静かに過ごす。
ナタルはあまり騒々しいリゾート地ではない。
NHKの視点・論点などをつい見てしまった。
少子高齢化を食い止めるには、といった題での某大学教授女史による論説であったが、なるほど女性が子どもを生み育てながら働ける環境を整える事は確かに大切であると納得しながらも、性差を考えない主張には違和感を覚えた。
子どもを良識ある大人に育てるためには、幼い頃充分な愛情を与える事が大切であると思うが、たとえば両親揃った環境において万が一母性愛に溢れる父親の手によって育てられた子どもが大人になった時の事を考えるとちょっと怖い。
算数を使って育児を男性女性「公平」に割り当てたとして、はたしてそれがよい事なのかどうか。
負担が公平なのは大切だとして、しかしそれぞれの役割があるんじゃないか。
父としての、母としての。
もし父と母が全く同じような役割を担う社会が到来したら・・・今以上に社会のひずみが大きくなるんじゃないかな。
未来に向けて、母からは母の愛を、そして父からは父の愛をまっとうに受けた子ども達が育つ社会であってほしい。
父、男性が正しく持つ父性とは、我が子に社会の壁といったものを教えるべき存在であってほしいと思う。
正常な男性なら母性的な愛を彼が我が子へと与える事は出来ないだろう。
それは重さが同じでも、女性が持つそれとはその形を異にするであろう。
同じく、母性は女性が持ってこそ正しく母性なのである。
これは性差、「差別」ではなくて「違い」である。
男が男である事、女が女である事はどうにも変えようがないではないか。