無意識の世界 24 mayo 2007
意識して出来る物事は人間の領域の中で案外少ないのではないか。
全てを意識化において動かすなんてばかばかしい気もする。
例えば演奏する時、一々技術の事が気になっていたら(技術的な事を意識していたら)、今、奏でている音楽に没頭するなんて出来たものではないですよね。
コントロールは無意識化に納めなければ使えない。
理屈だけわかったところ(=意識部分)で上手に演奏出来るワケじゃないんです。
演奏している時の理想は意識化されている脳の部分が動いている事を感じないような境地でしょうか。
例えば寝ている時間とか、これは案外大切なんじゃないか。
一日普通6時間は寝ているとしたら、人生の1/4は確実に無意識化の世界だ。
この時間が意識出来ないから人生に意味をなさない無駄な時間かというと、そうではないと思う。
心理学者でも生物学者でもないのでうまく説明出来ないのが残念ですが、この無意識化の時間が、ものごと体得する時の助けになっていると思う。
意識化において努力を重ねた事柄が、無意識化でうまく整合され熟成されるのを常々感じる。
なんというか、努力する事と息抜きする事のバランスは巷で囁かれている以上に大切なのではないだろうか。
「努力」は完全に意識下でのコントロールだから、それだけでは不完全だろう。
例えば素敵な日常・非日常の体験は、確実に魅力ある音楽づくりに反映されるけれど、その関連性を説明するのは中々難しい。
これも無意識化の部分が大きく意味をなしていると思うのだが・・・いつか説明する事に挑戦してみたい。
ま、つい意識出来る部分のみが自分であるように感じてしまいますが、無意識の部分も自分を形作るものである事はまちがいない。
諸行無常・・・ものごとは留まる事がないし、だから現実の世界では完全というものはない。
完全に感じるのは、常に意識の中に作り出されたそれらしい偶像だ。
現実世界では不完全が当たり前なんだっていう認識も大切なんじゃないか。
昨日の自分と今日の自分だって、厳密に言えば細胞が入れ替わっている。
だから同じ人間とも言えるし、違う人間とも言える。
一見とまっているように感じる景色だって、時間のスケールを変えてみれば激しく動いているだろう。
完全を目指してしまうと悩みは尽きない。
いや、それは悪い事じゃないけれど、「完全」なるものが現実世界には見当たらないんだよなって、どこか心の片隅に置いておく事は精神の安定を保つために大切なんじゃないか。
とはいえ、芸術は抽象化された意識・・・偶像の世界だから「完全」を提示したら、それを「完全」に感じる人はいると思うけれど、だけど、「完全なテクニック」は厳密にはあり得ないと思う。
あっ、決して安易に楽をしようってお話ではありません。
努力している事を前提として、だけど無意識の時間はそれも自分の一部で大切だよねってお話です。
これがまた理屈付けせず、あたかも軍事教練のように、ただひたすらがむしゃらに肉体を痛めつけるかのような練習も、その一部は意識化のみのコントロールではないから、重要な無意識の世界を形作っていると思います。
-次回ライブのお知らせ-
2007年6月2日(土)藤田浩司PianoSolo
ナチュラルハーモニー2000:大網白里町ながた野1丁目7-7
☆tel:0475-72-7966
1st) 20:00, 2nd) 21:00
チャージ1000円
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