土曜授業復活??? 29 mayo 2007
土曜授業復活を教育再生会議が第2次報告に盛り込む事を決めた。
私は時短に反対の立場であったが、180度の方針転換に現場は混乱するだろう。
制度を変えても教育は良くならなかった。
時短実施後の事実を見ると、それはむしろ学力の低下、悲惨な事件の増加というマイナスにつながったと考えられる。
「個性を伸ばす教育」には兼ねてから疑問を感じていた。
「個性」は生まれながらにして持っているものだ。
私が考えるに「個性」とは、アングロサクソンが金髪だったり、黒人の髪の毛が縮毛だったりするように、生まれながらにして備わっているものだ。
果たしてそれは教育によって伸ばすべき性質のものだろうか。
教育の本質は、先人の作り上げた知的財産や技術、社会常識を受け継ぐ事にあると私は考える。
「個性」を伸ばす事は、教育の対象としてはそぐわないのではないだろうか。
教育を「自発性」などに委ねていたら、何もおぼえられやしない。
誤解は防ぎたいが、「個性」を尊重する事は当然である。
但し、それは教育によって伸ばす類のものではないと考える。
「個性」とは教育されようがされなかろうが、必ず出てしまうものだ。
それをあえて伸ばそうだなんて、百害あって一利なし、その結末はおそらく社会不安を招くだけだ。
結果はこの十数年程の社会の動きに現れているとも言える。
また、余暇時間を増やすのは、絶対に「教育」ではないと思う。
それは必要な時間ではあるが、、教育の時間ではない。
それを教育の時間とするのは、無責任だ。
土曜日に児童生徒学生を野放しにしておいたのはマイナスの多い教育政策であったと思う。
それは教える側教えられる側、そのどちらにとっても楽チンであったかもしれないが。
ま、それはおいておくとして・・・
教師の立場からみて「教育」とは、自身が先人から受け継いだ伝統や知的財産、それに、それらを基に自ら発展させたものを後進に伝える事だ。
おそらく児童生徒学生は、学校という現場においてカリキュラムをはじめとする様々なシステムよりも「教師」それ自身に強く影響を受けるのではないだろうか。
制度をどうこう変えるよりも、まずやらなければならない事があると思う。
それは・・・質の高い「教師」の確保だ。
教師に見えているヴィジョンしか、児童生徒学生には伝わりようがないと思う。
そして、それぞれ「教師」にも必ず個性があるわけだし、一番エネルギー効率の良い教育は質の高い教師にやりたいようにやらせる方法だと思う。
人間は本意で動いた時に最もエネルギー効率がよい。
カリキュラムや指導要領で縛らなければ、傍目から見て不公平に見える事態は生まれるかもしれない。
しかしそれでも、教師のヴィジョンで物事を伝える事が教育の基本だと思うし、古いようだが児童生徒学生は「教師」その人の生き様を見て色々な事を学ぶのではないだろうか。
そうでなければ参考書と教科書を利用して勝手に勉強すればかなりの程度まで充分だとも言える。
教師は教科書のアシスタントではない。
教育とは教師という人間によって為されるべきものである。
教師に優秀な人材が確保出来たとする。
その時に彼らが能力を十二分に発揮出来ないようなシステムで彼らを縛ってしまったら、その損失は計り知れない。
その場その場において優秀な教師がなすさじ加減は最も効率が良いものだし、そうでなければ、そこに人材を置く意味がない。
教師本位の教育が実現した場合、必ず問題になるのが公平性だと思うが・・・
教育が人間の手によって為される限り、それはたとえ公教育においても同質にならないのは当然の事だと思う。
教育が同質でない事によって個々の不満は当然生まれるだろうが、それでも大きく社会全体で捉えれば、優秀な教師のエネルギーを最大限に活かすようなシステムが最も社会のためになるのではないだろうか。
繰り返すが「教育」とは、人間の手によってなされるべきものである。
その視点が弱いから、社会に非人間的な事件が増えたのではないだろうか。
強固で確かな人間の繋がりの中でしか、社会性は得られないはずだ。
-次回ライブのお知らせ-
2007年6月2日(土)藤田浩司PianoSolo
ナチュラルハーモニー2000:大網白里町ながた野1丁目7-7
☆tel:0475-72-7966
1st) 20:00, 2nd) 21:00
チャージ1000円
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