空海の思想について – 梅原猛 5 oct. 2008
私がそれと意識して真言密教と出会ったのは小学校2年の時であった。
それ以来、真言密教は今の今まで常に私の傍らに在る。
梅原猛氏のように求めた結果、出会った真言密教ではないが、もしも初めて出会った教えが真言密教ではない仏教であったとしたら、私は仏教徒にはなっていなかったと思う。
仏教を全て同じようなもの、と捉えてしまう方の方が世の中には多いのだろうけれど、真言宗は特別だ。
真言密教の大きいところは「即身成仏」の「即身」である。
密教では「無我」を説かない。「大我」を説く。
密教では「無欲」を説かない。「大欲」を説く。
仏教の中には、余りに禁欲を説くが為に修行僧が死んでしまうジャイナ教のようなものもあると聞くが、真言密教では活き活きと生きる事をまったく否定しない。
自分というもの、そして欲さえも否定しない。
現世も来世もない。
密教的思考で行けば、誰もがそのまま「空海」であり、「大日如来」たり得るのである。
また、密教は墨絵の世界ではない。
原色が煌びやかな曼荼羅の世界なのだ。
そして結局は全てが一つのものなのである。
全てが解け合い、だから何でも受け入れる事が出来る。
そこには「表」もあれば「裏」もある。
逆に「表」もなければ「裏」もない、とも言い換える事が出来る。
そこいら辺の事は「般若心経」に詳しい。
是非とも読んで頂きたい教典だ。
物事は一面で切り取っても、本質を観る事は出来ないし、「良」は「悪」とも成り得る。
逆に「悪」が「良」とも成り得るのであるが、これらの真実にピンと来る人がはたして何人いるのだろうか。
これらの言葉は非常に誤解されやすく、私はもどかしい思いをしている。
こうした全てを引っくるめたものの考え方が遍く拡がるならば、争い事などもグッと減るのではないだろうか。
そして万人が活き活きと生きて行けるのである。
それにしてもamazonは早いぜ。
空海の思想について (講談社学術文庫 460) (文庫)
梅原 猛 (著)
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