読書・・・続き 23 oct. 2006
自分の事を思い返してみれば、小学校低学年の頃から学校の宿題をやれなかった代わりに色々な本を読んでいたっけ。
新聞も小学校低学年の頃から全ページに目を通していたかな。首相が佐藤栄作から田中角栄に変わる頃より政治には興味があった。
休み時間に読んでいた本をチャイムが鳴った事に全く気付かずにそのまま授業中に読みふけっていた事も。
実は授業というものをしっかりと受けた記憶が希薄である。
だけど色々な本を読んでいたおかげで学校で勉強する内容を超えて色々な物事について詳しかった。
小学校の頃、自分の記憶にある情報のみで日本史の年表を作れっていうのがあって、1限から始めて5限まで書き続けて書き終わらず、翌日も朝から夕方まで年表作りをしていた事がある。あの時は確か結局それでも書ききれなくてタイムアウトだったんじゃないか。
そういった知識は実はすべて学校で学んだものではなく、読書が与えてくれたものだ。
国語、理科、社会科系の勉強が比較的よく出来たのは殆どすべて読書のおかげだと思っている。
だから読書で補いづらい数学の出来は悪かった(>_<)
算数くらいは大丈夫でしたが・・・。
どれくらい学校で勉強をしなかったか・・・
例えば高校3年間を通じてノートは全教科合わせてもたったの1ページしか取っていない。
それは1年次4月、初めて受けた国語の授業のみ。
高校はともかくとして、小・中のテストなんか時間の半分はテスト用紙の裏に落書きをしていたし。
その反面勉強ブームが自分に舞い降りた事があり、家では夜中の3時頃まで連日勉強していた事もあった。小学校高学年の頃。よっぽどヒマだったに違いない。
英語の辞書。
私は中・高と通じてなんと英語の辞書を持っていなかった。
今にすればこれは惜しい事をした。
辞書は読み物として結構面白い。
入学して間もない頃、せっかく同じクラスの女の子が辞書の面白さについて私に語ってくれたのに、その頃の私はそれに気付く事が出来なかった。
まずは手に取ってみるべきだった。
そして、高校卒業時に私の事を見かねて友人がくれた一冊の英和辞典はその後の人生を結構助けてくれた。
もっと真面目に勉強しておけばよかったとも思うけれど、何かに時間を使えば何かを捨てるしかない。
学校のカリキュラムは自分には合わなかったけれど、とはいえ小・中・高・大・院を通じて素敵な先生はたくさんいらっしゃいました。
各恩師の様々な影響を受けて自分があるし、ノートは取らなかったけれど、内容が魅力的でつい聴いてしまう講義は結構あった。
すべて今の自分を形作る財産だ。
思えばあの頃、母校の先生方は粒ぞろいだったと思う。
今はどうなのだろう?
大学、大学院さえも、そのカリキュラムの中で教えられるものにはピンと来なくて自分にはまったく合わなかったけれど、魅力的な人物や内容はたくさんあった。
魅力的な先生に恵まれる反面、小・中・高・大・院と自分と考え方の合わない先生もそれなりに多かった。
自分も幼かった。
職員室、その他色々な部屋に呼び出されたり、教壇の脇で勉強させられたり、様々な場面で殴られる事も多かった。
ま、確かにそれに値する悪い事をした事もあります。
また、自分が悪くないにせよ、残念だけど怒られても仕方のない事だなと納得する事もあります。
しかし、同時になぜ批判されるのか、どうしても納得出来ない事もありました。
それから不思議といくら怒られても、諭されても全く自分や自分の取る行動を変える事は出来なかった。
結局大局的な考え方や行動する理屈自体は物心着いた時からあまり変わっていない。
だから・・・今、物事を教えるのって難しいと思いますよ。
実感です。
勘違いしないで下さい。
学校で勉強するなって言っているわけではないんです。
そのカリキュラムがその子に適合するならそのカリキュラムで勉強した方がいい。
けれど、他の選択肢もあると思うんです。
適合性の問題です。
学校での授業はマン・ツー・マンというわけにはいかないから、そこで教えるカリキュラムがその子にピッタリと合う事はむしろ少ないだろうよっていう、当たり前の話です。
とはいえ公教育の現場としては全員に同じように授業を受けてもらわなければやりづらいだろうから。そこいらへんも問題といえば問題。
適当なゆるみ、抜け道は認めてもいいんじゃないですか。
それでは他の子にしめしが付かないという話もあるけれど、そういう曖昧な、難しい面をうまく舵取りする事に「先生」という人間を当てる意味があるのではありませんか。
現場ではカリキュラムより先生の裁量が優先しても良いのではありませんか。
しかし、その場合採用する先生はそれでも安心してまかせられる本当のプロでなければなりませんね。
これは大切な事です。
先生が信用出来ないから基準となる均質なカリキュラムに縛るというでは未来のための教育になるかどうか。
もし、「先生」が今のカリキュラムに仕方なく従っているのなら、それよりは「先生」という人間が運営して為す事に、より多くの感動と意味と影響があると思うけどな。
人間一人一人の能力や思考は驚くほど違うから、一つのカリキュラムに従って全員を均一に教育する場合、どこかに良い意味での差別とゆるみがなければ教育が歪むのは当然でしょう。
そんな舵取りはコンピューターには出来ない。
それをも出来るのが「先生」でしょう。
引力に従って打撃するから太鼓の音が無駄な力なく綺麗に豊かに響く。
先生も自分の意志に従って教えた時に最高の美しい力を発揮するのでは。
子どもだって興味を持った物事に対して全身全霊を傾けて打ち込んだ時、最高の何かをつかむのでは。
基礎の勉強は初めのうちみんな嫌がるけれど、それをマスターする素晴らしさに気付かせなければ。
物事を学ぶ事は絶対に面白いはずなんだ。
人間の本能、「好奇心」をくすぐるから。
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